「土の城」の到達点:小田原城総構と北条氏の興亡

関東ローム層

関東ローム層が生んだ、土の要塞の「ハイテク工法」

小田原城の総構(そうがまえ)が急速に整備されたのは、豊臣秀吉の来攻に備えた天正15年(1587)から18年(1590)にかけてのことである。当時の関東では、石垣を多用する西国型の築城とは異なり、地域特性である「関東ローム層」を最大限に活用した土塁と空堀が主流であった。

関東ローム層は粘着力が強く、切り立った角度で掘削しても崩れにくいという性質をもつ。近年の発掘調査では、堀を掘った際に出る土をあえてブロック状(土塊)に切り出し、土塁の芯材や外装に積み上げる、いわば「パック詰め」のような工法(土ブロック積工法)が確認されている。これにより、単に土を盛るよりも短期間で堅牢な急斜面を構築することが可能であったと考えられている。

さらに、土の防御施設は石垣のように弾丸が当たって破片が飛散する(二次被害)危険が少なく、鉄砲の衝撃を吸収する特性をもつとされる。関東で石垣が広く普及しなかった理由は、単に石材が不足していたからではなく、ローム層を利用した「土の城」が、防御力と施工効率の両面で合理的かつ完成度の高いシステムであったためだという評価もある。

小峯御鐘ノ台大堀切東堀の横矢
小峯御鐘ノ台大堀切東堀の横矢

徹底検証:土の城は本当に「鉄砲」に強かったのか?

もっとも、こうした理解にもいくつかの見解が示されている。第一に、「ブロック状」に見える痕跡が実際に積み上げられたものかどうかという点である。従来は土を切り出して積んだと解釈されてきたが、発掘で確認される痕跡は堀削時の掘削痕(ツルハシの跡)にすぎないとする慎重論もある。また、仮に積んでいたとしても、それは補強や整形のためであり、構造の主体は叩き固めた盛土(版築状)であったとする指摘も重要である。

第二に、「鉄砲に強い」という評価の妥当性である。確かに土塁は弾丸を吸収するが、当時の野面積みの石垣も隙間が多く、鉄砲程度で大きく崩れることは稀であったとされる。そのため、石垣が主流とならなかった背景には、防御性能以上に、石材運搬の莫大なコストやローム層の加工しやすさといった経済的合理性があったとみる見方が有力である。

さらに、天正15年からの約3年間で総延長約9kmに及ぶ総構を「ゼロから」築いたのかという点も議論の対象である。近年では、まったくの更地に新設したのではなく、それ以前から存在した堀切(ほりきり)や境界線を連結・拡張したものとする説が有力になりつつある。すなわち、短期間で完成した背景には、既存の防御施設の蓄積を踏まえた「総決算」的な再編・統合があったと考えられているのである。

上杉・武田を退けた小田原城の防御力と戦術

永禄4年(1561)、上杉謙信が大軍を率いて小田原城を攻撃した。さらに永禄12年(1569)には武田信玄が来襲した。両軍とも当時の大手門付近(蓮池口)に攻め寄せたが、細長く防御的に設計された曲輪で迎撃され、小田原城を落とすことはできなかった。武田軍は城下の松田家老の屋敷を焼き討ちして挑発したが、小田原軍は籠城を続け、武田軍は撤退した。これらの攻防戦を通じて、小田原城の防御力と戦術の巧みさが示された。

「難攻不落」の輪郭式城郭へ

上杉・武田の相次ぐ攻撃を籠城によって撃退した北条氏は、武田氏退去後、広大な二の丸のさらに外側にこれを包含する外郭、すなわち三の丸を構築した。一般に城の曲輪配置は直線に並ぶ連郭式や並列に配置する並郭式が多い中で、小田原城は八幡山遺構群(八幡山古郭)本丸・二の丸・三の丸へと同心円状に曲輪を重ねる輪郭式の構成となっており、これが「難攻不落」の理由の一つである。

天正18年(1590)、秀吉は22万の大軍を動員して北条氏を討伐し、約3か月の包囲の後、北条氏は降伏した。小田原城では長期籠城を意図して総構を築いていたものの、各地の支城が相次いで開城し、戦意の喪失が目立っていた。五代当主氏直は徳川家康を通じて開城の意思を伝え、秀吉は四代当主氏政とその弟氏照に切腹を命じ、こうして北条氏討伐は終結した。

豊臣秀吉による「天下統一」への包囲網

中世城郭の基本構造は土塁と空堀によって構成される。かつて、西国では地質的に石垣が発達し、東国ではローム層の粘着力を活かした土塁が石垣より堅牢であったために石垣が普及しなかったと語られてきた。しかし近年の研究では、関東においても北条氏が拠点城郭の要所に石垣を導入していたことが確認されている。関東で城のほぼ全域に石垣が巡る「総石垣」の城が主流となるのは、豊臣政権による支配や江戸時代(近世)以降のことである。

北条氏は、豊臣秀吉の来攻に備え、天正15年(1587年)頃より城下町をも飲み込む巨大な外周検地、すなわち「総構(そうがまえ)」を構築した。巨大な空堀と土塁で形成されたこの外郭は、総延長約9kmに及び、当時の日本最大級の規模を誇った。

これにより小田原城は、中世城郭の到達点としての「土の城」の構造を維持しつつ、後の改修による近世城郭の石垣遺構をも併存させる、類まれな複合城郭として歴史的価値を高めている。

豊臣秀吉の来攻と北条氏の滅亡

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は約21万から22万とされる圧倒的な大軍を動員して北条氏討伐を敢行した。北条側は、巨大な総構(そうがまえ)を有する小田原城を拠点に長期籠城戦を展開。同時に、精鋭兵を本城に集結させ、秀吉軍を長期対陣による兵糧不足や厭戦気分に追い込む戦略を採った。

しかし、秀吉軍は圧倒的な兵站能力と石垣山一夜城に象徴される構築力、さらには水軍による海上封鎖を徹底。関東各地の主要な支城も、激戦の末(山中城など)や、政権側の調略によって次々と開城した。

同年7月、北条軍の組織的な抵抗が限界に達するなか、五代当主・氏直は徳川家康を通じて降伏を申し出た。この際、氏直は「自らの命と引き換えに将兵や領民を救うこと」を条件に開城を決断した。秀吉はその自己犠牲の姿勢を認め、氏直を助命(高野山追放)とする一方、強硬派であった四代当主・氏政とその弟・氏照、宿老らに切腹を命じた。これにより、戦国屈指の規模を誇った後北条氏は、その歴史に幕を閉じた。

お城をつくる会

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