城絵図が示す天守の変遷と解釈の課題

城絵図が示す天守の変遷と解釈の課題
小田原城の天守は、江戸時代の「正保城絵図」や「文久図」といった複数の絵図に記録されているが、それらに描かれた姿形は一様ではない。
特に寛永11年(1634年)の家光上洛に合わせて幕府の公金で再建された「寛永天守」は、正保図において古式な望楼型の外観で描かれている。二重目・三重目の高欄が朱塗りであった可能性など、将軍を迎える「御成の城」にふさわしい華麗な装飾を推測させるが、これには幕府への報告用としての「演出」が含まれている可能性も否定できない。
その後、元禄地震を経て宝永3年(1706年)に再建された「宝永天守」では、装飾を抑えた層塔型へと姿を変えている。これは火災に対する脆弱性の改善や、繰り返される震災への耐震性、さらには建築コストの合理化を追求した結果と考えられる。
これらの城絵図は、時の政権の意図や技術的変遷を映し出す貴重な資料であるが、描かれた姿がどこまで当時の実像を忠実に反映しているかについては、専門家による緻密な検証も含め、多角的な検討が必要である。
徳川三代将軍家光が好んだ天守の姿
江戸時代の小田原城天守のなかでも、「正保図」に描かれた寛永天守は、とりわけ家光の愛着を受けた存在である。建築は寛永10年(1633)、将軍家上洛の準備の一環として始まったが、同年1月21日の寛永小田原大地震によって城は壊滅的な被害を受けた。
当時の城主・稲葉正勝は、震災復興と幕政の激務が重なり、翌寛永11年(1634)に死去する。家光にとって正勝は学友であり、その母・春日局は乳母として深い情愛を注いだ存在であった。正勝の次男・正則が若くして家督を継ぐと、家光はその境遇に強く心を寄せ、損壊した小田原城を幕府官金で修復する特例を認める。これは小田原城を江戸城の「西の守り」としてあらためて位置づけ、その威容を高める意味を持っていた。
「西の守り」の象徴:家光が追求した優美なる天守の到達点
また家光は、父・秀忠が築いた江戸城元和度天守を建て替え、寛永15年(1638)に寛永度天守を完成させたように、壮麗な天守を志向した。小田原城の再建に際しても美しさを追求し、完成した寛永天守は初重と二重目の双方に高欄を備えるなど、特に優美な姿を誇った。この二代目天守は、家光の思いが込められた象徴的な建築として、日本の天守の中でも独特の美しさを放つ存在となったのである。

認定NPO法人みんなでお城をつくる会
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