時代ごとに移動した小田原城の大手門

「攻撃」から「守備」へと変化した城の門

  • 八幡山古郭大手門
  • 四ツ門
  • 箱根口門
  • 丸馬出門
  • 本町大手
  • 近世大手門

「大手」には「城の表玄関」と「城から打って出る馬出門」の2つの意味がある。はじめ大森氏の時代は現在の青橋付近、氏康時代には四ツ門、その後、箱根口門へ移った。四ツ門は敵を誘い込んで横矢で殲滅する攻撃的な構造だったが、弓矢から鉄砲へと時代が変わり、箱根口門の時代には守備重視の専守防衛の姿勢が強まったと考えられる。

大久保氏の改易と二の丸・三の丸の破却

鐘撞き堂

江戸初期、大久保氏時代には半月形馬出しを備えた大手門が設けられた形跡も認められる。元和5年(1619)、大久保氏は幕府の政争の中で改易となり、小田原城の二の丸・三の丸が破却され、本丸のみが残された。家康の死後、徳川秀忠が大坂夏の陣後の関東の安定化を図るため取り壊したと考えられる。

江戸を見据えた「現在の小田原城」の形へ

その後、稲葉氏の時代の寛永10年(1633)には、江戸に向く現在の位置に大手門が移設され、現在の裁判所前の鐘楼の石垣がある位置へとつながる。6か所に及ぶ大手門の変遷は、時代ごとの戦術・政情・技術の変化を映し出している。

お城をつくる会

認定NPO法人みんなでお城をつくる会

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