明治の決断:全国に先駆けた「廃城」と変遷

役目を終えた城と資材のゆくえ
明治維新後、小田原藩は深刻な財政難と老朽化により城の維持が困難となった。明治3年(1870年)、小田原は全国的な廃城令(1873年)に先駆けて明治政府へ廃城を届け出、許可された。これは異例の早さであった。
廃城後、城内の建物は商人の平井清八らに売却され、天守や櫓は解体。貴重な資材は再利用のために運び出されたが、堅牢な石垣や土塁はその場に残された。
「小田原御用邸」の誕生と立ち入り制限
その後、城址は明治6年から陸軍省、同32年からは宮内省の管轄へと移り、二の丸周辺には「小田原御用邸」が建設される。これにより、かつての武威の象徴は皇室の静養地となり、一般の立ち入りは厳しく制限された。
生活の場から「城址公園」への脱皮
一方、明治26年には天守台に藩祖を祀る大久保神社が創建されたが、御用邸建設に伴い小峯丘上へ移転。堀は一時、水田として小作人に開放されるなど、城跡は生活の場へと変貌した。
しかし大正期に入ると、史跡保存と観光開発を求める市民運動が沸き起こる。観光資源としての価値が見直され、埋め立てられていた堀の水位がかさ上げされるなど、現在の「城址公園」へと繋がる整備が始まった。

認定NPO法人みんなでお城をつくる会
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