ミステリー:海を渡った黄金の鯱はどこへ?

海を渡った小田原城の鯱
明治初頭まで威容を誇った宝永天守も、廃城とともにその象徴であった鯱を失った。伝承によれば、解体時に売却された鯱は横浜港からドイツへ運ばれたという。当時のヨーロッパではジャポニスム(日本趣味)が隆盛を極め、日本の美術工芸品や建築装飾が数多く海外へ渡った。小田原城の鯱もまた、異国の博物館や個人コレクションの中に静かに眠っているのだろうか。その行方を追うことは、失われた小田原の記憶をたどる旅でもある。
明治初期には、1873年のウィーン万博を契機に日本の工芸品が大量に欧州、とりわけドイツ圏へ渡った。もし小田原城の鯱が現存するとすれば、ベルリンなどの博物館の収蔵目録の中に痕跡が残されている可能性もある。
壊されたのではなく「維持できなかった」城
また、小田原城が政府の廃城令を待たずに解体へ向かった背景には、戊辰戦争後の処分や深刻な財政難があった。城は「壊された」というより、「維持できなかった」という側面が強い。
御用邸が守り抜いた城郭の遺構
その後、城址は御用邸となり、一般の立ち入りは制限された。しかし結果的には、これが無秩序な開発から城址を守ることにもつながった。もし宮内省の管理下に入らなければ、石垣までも失われ、市街地へと変わっていた可能性も否定できないのである。

認定NPO法人みんなでお城をつくる会
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